【エルトゥールル号遭難事件】日本とトルコ、友情の始まり

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人類の歴史は戦争の歴史。国家間で生まれた恨みや憎しみは、世代が変わっても簡単には消えません。一方で、助けられた恩義や友情もまた忘れないものです。 

教科書にも載っている「エルトゥールル号事件」は、まさにその象徴ともいえる出来事で、日本とトルコの固い友情はこの時から始まりました。 

親善航海だったエルトゥールル号

明治23年(1890年)、オスマン帝国(今のトルコ)の軍艦エルトゥールル号は11ヶ月という長い航海の末、横浜へ到着しました。使節団の司令官オスマン・パシャ少将は明治天皇に謁見し、オスマン帝国皇帝の親書と勲章を贈呈、併せて両国の修好という皇帝の意を明治天皇に伝えました。これに対し明治天皇は使節に勲章を授け、饗宴をもって応えました。 

無事に任務を終えた使節団は、予定より2ヶ月遅れて帰国の途につきます。当時の季節は台風シーズン。旧式の木造艦であるエルトゥールル号では不安が残ります。日本は出発前に船の修理を勧めますが、オスマン少将は帰途が遅れることを心配して予定通り横浜港を出ました。 

暴風雨で座礁・沈没 

横浜港を出た翌日の9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖において台風に遭遇、船甲羅岩礁に激突しました。船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となりました。 



大島村の救助活動 

樫野崎灯台に漂着した生存者を発見した大島村の村民達は、海へ入り他の生存者の捜索を行います。捜索・救助・看護の救助活動は不眠不休で行われ、決して裕福ではない村民は惜しみなく衣服や米、貴重な鶏肉を提供しました。また、生存者に対してだけではなく、遺族のためにできるだけ多くの遺体と遺品を引き上げようとしました。 

手厚い保護を受けた生存者達は、その後治療のため神戸に移されます。そして翌年1891年、日本の軍艦によって無事オスマン帝国へ送り届けられました。 

生存者たちは神戸に移った後も帰国した後も、大島村で献身的に支えてくれた村民のことを忘れることはありませんでした。

95年後の恩返し 

「今から48時間後、イラン上空を飛ぶ全ての飛行機を無差別に撃墜する」 

イラン・イラク戦争が続く1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が声明を発表。イランに住む外国人は急いで帰国の準備を進めます。しかし日本とイランの首都テヘランの間には定期便はなく、救援機の派遣も航行の安全が確保できないとの理由から見送られました。他の手段は外国の航空機に乗るしかないのですが、当然どこの国も自国民が優先です。200名あまりの日本人がテヘランに取り残されていました。 

そんなさなか、トルコが2機の航空機を日本人のために派遣。タイムリミット3時間前にして日本人は無事にイランを脱出することができました。テヘランにはまだ多くのトルコ人もいましたが、航空機は自国民より日本人を優先、残されたトルコ人たちは陸路で国外脱出しました。 

なぜトルコ航空が助けてくれたのか。日本政府もわからずにいました。理由は後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏によって語られました。 

「エルトゥールル号の事故の時、日本人がしてくれた献身的な救助活動をトルコの人たちは今も忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」 

テヘランの日本人救出劇は、トルコにとっては恩返しだったのです。 



その後も続く日本とトルコの絆 

1999年8月17日、トルコ北西部で大地震が発生。日本政府は仮設住宅500戸を搭載した輸送艦3隻を派遣、テヘランで助けられた日本人たちは義援金集めに奔走しました。 

2011年の東日本大震災。トルコは貨物機で缶詰、飲料水、毛布を宮城、福島県に届けました。また、32人の救助隊を派遣し、各国の救助隊の中で最も長く被災地に留まり救助活動を続けました。 

その後も大きな災害がおこる度にお互い助け合っています。日本とトルコの絆は、エルトゥールル号事件以来いまでも続いています。 

エルトゥールル号関連情報

外部リンク
和歌山県インターネット放送局
串本町公式サイト:絆のものがたり

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