「I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。」
吉野弘氏の散文詩『I was born』からの引用です。作中の少年は、”I was born” が受動態なのは人間が「生まれさせられる」からではないか、と疑問を抱きます。
言われてみれば、なかなかに興味深い視点です。
born の語源は古英語の boren (生む、運ぶ)からきており、その後 (誕生する、出産する)という意味も含むようになり、今の bear (生む、産む、耐える)の過去分詞に落ち着きました。つまり元々は受動態ではなかったのです。現代では be born と一応は受動態の形になってはいますが、感覚的には形容詞的に使われているのが現状です。
確かにキリスト教圏では、神様から命を授かったみたいな発想がありますが、それが英文法にも反映されているというのは深読みし過ぎです。それを言い出すと人の感情表現は全て受動態。“I’m excited.” や “I’m pleased.” などは自分の意志ではないのかって話になってしまいます。
結論としては、”I was born.” が受動態なのは「生まれさせられた」という考え方とは関係ありません。「生まれた」と考えるか「生まれさせられた」と考えるかは、自分次第です。
■散文詩「I was born」 の趣旨
ここでは吉野弘氏の『I was born』の一節を取り上げましたが、文法の由来を追求する事が作品の趣旨ではありません。あくまで作中のセリフのひとつです。少年と父との対話のなかで、自分の意志とは無関係にこの世に生をうけた事とどう向き合うのかを考える内容です。
この少年のように、学んだ知識から想像力を働かせる感性は大事にしたいものです。



